実力を過信して消えた5人のルーキー
プロ野球といえば華やかなイメージがあると思います。しかしながら、ほとんどの選手が活躍できるというわけでなく、陰に消えていくことになります。自身の実力を過信していたルーキーのビックマウスに注目していきます。
BASEBALL BUZZ運営者のくま(@Xアカウント)です。
川口知哉
高校時代からビックマウスは健在
ビックマウスといえばこの人です。平安高等学校3年生の時の1997年、藤川球児を擁する高知商業に完封勝利した後に、「次の試合は完全試合をする」と発言。
甲子園不出場ながら東のドクターKとして有名な選手であった井川慶、鳥取城北高校の能見篤史と並んで高校生左腕三羽ガラスと呼ばれました。その実力とビックマウスから注目度が高かった、川口選手。
衝撃の入団
同年のドラフト会議にてオリックス・ブルーウェーブ、近鉄バファローズ、ヤクルトスワローズ、横浜ベイスターズの4球団から1位指名を受け、抽選の結果、希望通りオリックスへの入団になりました。
入団会見の際に、「投手だから背番号10番台が欲しい。背番号11だと嬉しい」と発言しました。これは当時の背番号11を付けていたチームの重鎮である佐藤義則の存在を知っていながらの発言でありました。続けて、「20勝したい」「監督に僕をいつから1軍で使うのか聞いてみたい」と発言。
プロ入り後は不振に苦しむ
プロ入り後は活躍することはできず、一年目から自身のフォームをム失うことで制球難に苦しむことになる。
2001年8月4日のウエスタン・リーグの対広島東洋カープ戦で1試合6暴投のリーグ新記録、8月29日の同リーグの対阪神タイガース戦では1試合15与四球、7連続与四球のリーグ記録を作った。この試合でも3暴投を記録し、リーグ新記録のシーズン14暴投2004年のオフに戦力外になりました。
その後の進路も野球に関わり続ける
プロ野球の退団した後は、指導者としての才能が開花。2010年から2012年まで日本女子プロ野球機構のコーチを、2013年から2014年まで監督、2015年は日本女子プロ野球リーグの4チーム統括ヘッドコーチを務めた。
2022年4月1日付で母校の龍谷大平安高校に職員として勤務を行いながら、野球部のコーチに就任している。
黒木純司
1991年、捕手として1年先輩の黒木知宏投手(元千葉ロッテマリーンズ)とバッテリーを組み、第73回全国選手権に出場。新チームから投手へ転向。ドラフト4位で日本ハムファイターズに入団。
イチローをけちょんけちょんに
目標を聞かれた黒木は、「目標は、イチローをケチョンケチョンに抑えて、イチローのファンを自分のファンにしたい」と大胆な発言をした。さらに、ジョニーと呼ばれていた黒木知宏に対抗して、「マイケル」と呼んでほしいとアピールしたがその名前が定着することはなかった。
プロ入り後の成績
プロ入り後は、中継ぎとして安定。1999年は自己最多登板となる50試合に登板し、3勝3敗8セーブをあげた。2001年にトレードになり、再び黒木知宏と同僚になる。2003年は4試合の登板に終わり、球団から戦力外通告を受け、現役を引退。
ロッテのスカウトに
その後はロッテにかかわり続けている。2005年からロッテのスカウトとして球界に貢献、2011年はロッテの二軍投手コーチ補佐を務めた後、再びスカウトに就任。
吉田 幸央
「公立の星」と呼ばれた高校時代
野球部の名門、東海大相模に進学したものの1学期で高校を中退しました。その後、神奈川の県立高校に移籍し「公立の星」と呼ばれ、その実力は「サンディエゴパドレスの入団テスト」に合格するほど。
メジャーには絶対行く
しかし、メジャー契約はせず、ヤクルトにドラフト5位で指名。「メジャーには絶対に行く」「160キロを出したい」と発言をし、騒然とさせた。さらに入団の場面で、北京オリンピックについて聞かれると「2戦目は松坂さん。1戦目は僕が投げる」とビックマウスがさく裂。
プロ入り後は半年で退団
しかし、プロ入り後は、内臓疾患によりわずか半年で任意引退と残念な結果に、12球団合同トライアウトを受けて、再起を図りましたが、プロ復帰は果たせなかった。
マック鈴木
本名:鈴木 誠(すずき まこと)、愛称の「マック」の由来は、本名の「誠」がアメリカ人には発音しづらいため、マイナー時代に周囲が「マック」と呼びはじめた。
学生時代
野球の名門高校に進学するが、警察沙汰を起こし高校を自主退学する。その後は、周囲のススメもありアメリカへ留学する
史上初のに日本を経由しなしMLB選手
1Aのスパーズに、球団職員兼任練習生として参加する。バッティングピッチャーをしながらチームで実力を発揮。1996年7月7日にメジャーデビューを果たし、日本プロ野球界を経由しない初の日本人メジャーリーガーとして注目を浴びた
日本球界に挑戦
2002年にロイヤルズに復帰するが、この年メジャーでは勝利を挙げられずに解雇され、日本のプロ野球チーム入団の意向を表明。オリックスがドラフト2位で指名した際に、「新人王の資格は辞退したいと思います」と発言したことが話題。結果は4勝9敗1セーブと新人王には程遠い成績に、この年のパ・リーグの新人王ホークスの和田。
その後は解説者として活躍
その後は、2013年からJ SPORTSで解説を行っている。2017年から関西テレビのローカル中継にも本数契約で出演。その他、履正社医療スポーツ専門学校(履正社学園)で講師(コーチ)も務める。
野茂英雄
プロ入り前
高校卒業時に既にプロから誘いがあったが、新日本製鐵堺へ入社。新日鐵堺での1年目にはスライダーを習得できなかったため、最大の武器となるフォークボールを習得。同年のワールドカップ日本代表に選出され、ソウルオリンピックでは銀メダル獲得に貢献している。
史上最多の8球団の指名
1989年のNPBドラフトでは史上最多の8球団から1位指名を受け、抽選の結果、近鉄が交渉権を獲得した。推定契約金は史上初の1億円台となる1億2000万円、推定年俸は1200万円。契約時に投球フォームを変更しないという異例の条項が付け加えられた。この条項に対して、当時の仰木監督はそれを容認した。
監督と不仲な近鉄時代
一年目に『新人王、沢村賞、MVP』の同時受賞という史上初の記録に輝いた野茂。1994年の契約更改では複数年契約と、代理人による代理人交渉制度を希望。この際球団は「君はもう近鉄の顔ではない」と告げ、野茂は「お金の問題じゃないんです」と反論したが、この一連の動きに対してはマスコミも近鉄の意見に同調し、次第に孤立することになる。
MLBに挑戦
野茂は球団フロントの制止を振り切り近鉄を退団しメジャーリーグに挑戦。これは現在のプロ野球ではできない。当時のルールブックの穴をついた形で退団している。
その後のMLBでの大活躍は、言うまでもない。日米で『NOMOマニア』「野茂が投げれば大丈夫」という言葉が生まれる程の人気を誇り、ファンに愛される選手に、そして3社の教科書に掲載されるなど歴史的にも著名な選手となった。
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